ベトナム ホーチミンからダラットへ 後編

ベトナムのホーチミンからバスで5時間ほど北の内陸部にある町ダラットは、標高1500mくらいの高原にあります。涼しくて、自然豊かで、日本で言えば軽井沢みたいな避暑地です。

コーヒー農園のほか、ワイン農園、花農園、高原野菜農園、牧場などもあり特産品がたくさんあります。

林芙美子の小説「浮雲」の舞台にもなっているので近代文学がお好きな方はご存知かもしれませんね。

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スコールが降ったり止んだりを繰り返す中バスは山道を走ります。霧の合間から山が見え隠れ。

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バスの中はこんな感じ。サービスなのでしょうが、モニターからはお笑い番組が大音量で流れ続けています。乗客のみなさんは爆笑しながら見てますが私はさっぱりわからないのでひたすら窓の外を眺めています・・

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不意の晴れ間から見える虹が近い!

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ベトナムでは良く見かけるオレンジの花。名前はわからないです。

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そして、ついにコーヒー農園が見えてきました。というか、その辺一帯がコーヒーの木。おおお。と気分が高揚します。

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遠くに、次第に建物が見え始め、ダラットの町が近づいてきます。

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このあたりはまだ郊外。

そして、町に到着しましたが、着いた場所は郊外の小さなバスターミナル。ここからは皆さん、宿のお迎えのワゴン車に乗り換えて、各々散らばっていく様子。

観光地なのでほとんどのひとはあらかじめホテルを予約しているのだと思います。行き当たりばったりで何も決めていないわたし。

運転手さんに宿を聞かれ、まだ決まってないと言うと、とりあえずこのワゴン車に乗れ、町までは無料だからと(ほんとかわからないけど)言われ、まあなんとかなるか、と同じバスに乗っていた年配のベトナム人のご夫婦と一緒にワゴン車へ。

街中の適当な場所で降ろしてもらってあとは歩いて宿を探すつもりだったのですが、ワゴン車の運転手さんにその説明がまったく伝わらず、仕方なく、宿の希望の価格を何度も繰り返して言っていたら、運転手さんの知り合いのゲストハウスに連れて行かれました。(商売なのか親切なのかはいまいちわからない。。運転手さんにはそこのところの違いはきっとないのでしょう)ワゴン車は無料だったのでそれだけでもありがたかったです。

ゲストハウスで価格を聞いて、部屋を見せてもらうだけ見せてもらうことに。

価格は想定していたしていたのより少し高めでしたが、部屋はまずまずなのでこの晩はここに泊まることにしました。

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ツインのシングルユースで一泊日本円で1200円くらい。ベトナムのゲストハウスでは高いほうなのだと思います。

ガイドブック片手に街に出て夕飯。そこで久しぶりに日本語が聞こえてきました。現地の会社駐在員で、普段はハノイにいるのだけど、今回は接待でダラットにゴルフに来ているという日本人のおじさま数人。少しお話をしていたら、一杯ご馳走しましょう。と言って下さいました。

一杯くらいならごちそうになってもいいか、と思いありがたく頂くことに。そしてお店の方が運んできたのは・・・。

日本人のおじさまいわく「ここの高原牛乳はほんとうにうまいですよ!!」

あ・・ありがとうございます。牛乳・・ありがたく頂きます。ここダラットはワインの産地でもあるんですけどね。いやなんでもないです。

ダラットには3泊ほどの予定です。次回は町の雰囲気をお伝えしたいと思います。

ベトナム ホーチミンからダラットへ 前編

2012年11月6日 ホーチミン、チョロンから、ダラットへ

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チョロンの朝。まだ曇りがちな空模様です。ホテルの窓からしばし町並みを眺めます。高層ビルも、大きなホテルもあって近代的に見えますが歴史を感じる古い建物も同じ風景に馴染んでいます。東京の下町月島を連想します。

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建物の屋上はどこも個性的な作りで、庭のようになっています。洋風の家、中華風の家、様々です。写真は撮っていませんが、屋上で太極拳をしているおじさんもいました。健康的!

ホテルを出て、出勤中の地元のひとびとと一緒にローカルバスでホーチミンのバスターミナルへ向かいます。バスの中で、話しかけられて意味がわからず簡単なベトナム語の指差し会話帳を開いて絵を見ながら聞き返すと、私の腕時計をさして、いま何時?と訊ねていたようでした。意味がわかって、会話帳の数字の表記を見ながらたどたどしく答えるとわまりのひとがみんなくすくす笑っています。バックパックを背負っているので旅行者なのはわかっているのでしょう。たぶん時間を訊ねたお姉さんも、時間が知りたかったのではなく、なにか話しかけてみたかっただけ、という雰囲気でした。短い時間でしたが、少し楽しい気分になりました。

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そしてホーチミンのバスターミナルに到着。大きなバスは長距離用、ワゴン車は近距離用の乗り合いバスのようです。

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とにかく広くって、何番線まで乗り場があるのかわからないくらいです。ずらーーーーっと並んだバスの中から自分の乗るバスを探すだけでもひと苦労です。

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チケット売り場でダラット行きのチケットを購入して、売店で朝ごはんを購入。この日は肉まんみたいなのを買いました。とっても大きな肉まんだったのですが、中にはひき肉のほかいろんな野菜やウズラのゆで卵が丸ごとごろごろ入っていて美味しかったです。

乗り場をうろうろして目的のバスをみつけ、10時頃にホーチミンを出発しました。

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車窓の風景。整然と並んでいるのはゴムの木です。幹の根元から1mくらいのところにらせん状の切り目が入っていて、幹から滲んでくる樹液(ゴムの原料)を根元の缶に貯めるような仕組みになっています。

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道中いたるところにある屋台。野菜や果物が色鮮やかです。

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2,3時間ほど走って、休憩所へ。

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怪しい雲行きだったのですが、休憩所に着いた途端にものすごいスコール。

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休憩所の中はフードコートのような感じ。何軒かの飲食店が入っていて、好きなものを買って食べる感じです。肉まんでお腹いっぱいだったので、どうしようかなーと迷っていると・・・ダラットへ770

良いものを発見!アイス!旅に出てから(と言っても1週間目くらいですが)まだ一度も食べてないアイス。

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わくわく、と開けると・・・・

溶けてる・・・

取り替えてくれって言ったら替えてくれるのかな・・・ここはベトナムだし・・・・説明できるかなあ・・開封しちゃったしなあ・・・私が溶かしたって思われるかなあ・・・・・飲む?このまま飲んじゃう?

と一瞬弱気になりましたが、いや、ここで強気でコミュニケーションをとらないとこのあともっと過酷な事態が起きたときに耐えられない!←おおげさ

なにかとっても大きなことにチャレンジするつもりで(割と本気)売店のお姉さんに溶けたアイスを見せ、かくかくしかじか(英単語羅列)と状況を伝え、取り替えてくれない?と訊いてみました。

最初は不審そうに、面倒くさそうにしていたお姉さんですが、アイスのストッカーを開けて、同じものを取り出そうとした瞬間「oh! wow!」と小さく叫びます。何事??と思って見ていると、冷凍ストッカーの上の方に置いてあったアイスが軒並み溶けている様子。

ここでやっとアイスを取り替えてほしいと言う私の言い分が認められたようで、お姉さんは苦笑いしながら、ストッカーの下のほうから溶けていないものを取り出して渡してくれました。やったー!勝った!(なににだよ?)

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そして手にしたアイス。パッケージは熊なんですけど、どう見てもパンダ。しかもなんか怒ってる?

 

ということで休憩を終え、バスはさらに高原の町ダラットへ向かいます。後編に続く。

 

 

 

ホーチミン チョロン5区 後編

小雨が降ったりやんだりでとにかく暗くなる前に宿を確保しよう、と歩き回ります。中華街はゲストハウスが少なく、どちらかというと中規模ホテルが多いので、その中でも安めのところを探します。大通りに面している場所は一晩中バイクの音がして眠れないだろうと思い、なるべく1本入った通りをうろうろして、ようやく宿決定。

カンボジアでランドリーに行くタイミングを逃していて(もともとシャツ2枚・Tシャツ2枚・パンツはデニム1本のみ)雨に濡れて着替えがなく、とりあえず着替えを買いに出ました。

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しかし、なぜかギャル系の洋服やさんばっかり。そしてベトナムの女の子達はみんな小柄で細い!買える服がない!ピタピタのラメラメとか無理!!!!予想もしなかった展開で濡れたまま街をさまようこと2時間。おばさまたちはいったいどこで服を買ってるの~!

ようやく町外れで見つけたアウトレットショップで、ZARAとアバクロをみつけ、値札もろくに確認せずカットソー2枚と麻のパンツを1枚購入。ZARAはともかく、アバクロ・・・この年ではけっこうきついものがありますよ。それに、お店ひとは英語がほとんど通じないためコミュニケーションもなかなかとれない。私も単語以上の英語は話せないので単語が通じないともう無理です。

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宿に戻ってシャワーを浴び、着替えてやっとひといき。夕飯を食べにふたたび街へ。せっかく中華街なので、中華を食べよう、とお店を見て回るけど、円卓囲む感じのお店が多くて入りづらい・・・

で、こじんまりした中華食堂へ。

メニュー読めない・・・漢字もなんか画数多いし・・ベトナム語はまったくわからないし。わかったのは水餃子。これならいける!そしてあと○○麺って書いてあるのはなんかラーメン的なもののはず。と安いのを良いことに2品を注文。

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こちらが水餃子。で、でかい。一個が日本で食べる餃子の3倍くらいあります・・おなかすいていたのでいけるだろう思い頂きます。皮がもっちり肉厚で美味しいですが肝心のタレがなんか違う。たぶんお醤油が魚醤なんだと思うのですが、あ~日本の酢醤油で食べたい~と思ってしまいました。

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そしてこちらが○○麺。スープ麺を想像していたので、まず焼きそばたったことにびっくり。そして量が・・・これもまた3倍・・・・さすがに食べきるのは無理、(水餃子だけですでにおなかいっぱいになってた)ので、身振り手振りでなんとかお持ち帰りパックを頂いて、翌日の朝ごはんに持越しです。

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腹ごなしに夜の街をカメラ持ってお散歩。治安はあんまり良くないと聞いていましたが、どうしてもチョロンの街を撮影したかったので裏通りには行かないようにしながら。

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明るい時と夜の同じ場所。街灯は少ないのですが、店の明かりと車やバイクのランプでライトアップされているよう。

ここチョロン5区は、マルグリット・デュラス原作の、ジャン・ジャック・アノー監督の映画「愛人ラ・マン」の舞台となった街なのです。

観たのはもう20年前の学生時代のことですが、主演のジェーン・マーチの気だるい美しさと、フランスの植民地時代の名残の建物や風景、退廃的なアジアの湿度感が、深みのあるかすれたジャンヌ・モローのナレーションと相まって、いまも深く印象に残っている映画です。

作品の時代設定は1920年代の終わりですし、撮影時からもすでに20年経っていて、ずいぶん街は変わってしまっているようでしたが、それでもどうしても来て見たかったチョロン。

ひとりで街を歩く自由さと心細さ、異国の迷路に迷い込む感じ。現実感が薄くて不思議な体験でした。

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宿の部屋から見下ろすチョロン。疲れているのになかなか眠れない夜でした。

次回はベトナムの一大コーヒー産地でもあり、避暑地でもあるダラット高原へ移動します。

ホーチミン チョロン5区 前編

2012年11月5日 ホーチミン

昼過ぎにホーチミン市街地に到着しました。とりあえず珈琲!ということで早速ベトナムのコーヒーチェーン、ハイランドコーヒーでひとやすみ。雰囲気はエクセルシオールに似てました。メニューはドル表記で、wifiが使えるため外国人旅行者のお客さんが多かったです。価格はかなり高め。日本で考えるコーヒーチェーン店とはちょっと違う感じです。

バスを乗り継いで、この日の目的地、チョロン5区へ。ベトナム最大の中華街です。

バスターミナルで乗り場を乗り場をたずね、並んで待っていると、別のひとがどこに行くのか訊いてきて、そのバスはここじゃないあっち。と言われ移動。そこで一応ならんでいたひとに確認すると、そっち。そっちではあっち。あっちではこっち。こっちではそっち。を数回繰り返し、一時間くらいしてようやく目的のバスに乗ることが出来ました。

あとで調べてみると、どうやらチョロンへ行くバスは何通りかあるようで、経由が違うためみんな自分が使っている路線を教えてくれていたようでした。地元のひとたちの親切に翻弄されつつ夕方ようやくチョロンに到着です。

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横浜の中華街のような極彩色の街ではないのですが、看板は漢字が多く、中華系の顔のひとも多くてホーチミンの中心街とはやはり趣が異なります。小雨模様の中急ぎ足で両替の出来る銀行を探して閉店時間ぎりぎりにとびこみセーフ。

ベトナムはたいていどこでもドルも使えるのですが、ここからしばらくはベトナムなので地方に行っても大丈夫なように、多めにドンを用意しました。ドンは銅(青銅)という意味だそうです。円の由来はなんだろう。丸いから??

ベトナムドンは、100円=21800ドンくらい(これはブログを書いている今のレートなのでその時期は22000ドンくらいだったと思います)。1000円払うのに220000ドン・・と単位が大きいので小額紙幣をたくさん、で両替すると種類が多くて訳がわからなくなります。

訳がわからないのは銀行のひとも同じだったらしく、1万円分の両替をきっかり1000円分のドンで用意してくれていました。幸い向こうが先に気が付いてくれて、頭をかきかき両替しなおしてくれてヨカッタ。そんなゆるい空気のベトナムです。

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中華系の寺院・・なのかバイク駐輪場なのかよくわからない感じ。

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バイクの荷台にくくりつけられた金網に鳥さんたちがぎっしり・・これは・・・・ですよね・・・

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途中で見かけた珈琲豆屋さん。中華系の漢字の珈琲という字は、部首の偏が「王」ではなくて「口」です。

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100gで8000~15000ドンくらい。日本円に換算すると35円~80円くらいです。

ベトナムコーヒーは焙煎にバターを使い極深煎りで焼ききるので、販売されている豆はどれも漆黒でつやつや。豆の種類は日本で一般的に売られているアラビカ種ではなくロブスタ種と呼ばれる品種で、粒は小さめで丸っこい形をしています。

この豆をエスプレッソ用みたいにパウダー状まで細引きにして、アルミで出来たフィルターで抽出します。このあたりについては長くなるので、別記事でまとめてみようと思います。

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こちらは雑誌にも載っている新しいお店。置いてある豆もアラビカ、ロブスタ、ロブスタよりさらに安いチェリー、とバラエティがあり、焙煎も深煎りだけでなく何種類かありました。店内は撮影を断られたので、外観だけ撮らせて頂きました。

後編に続きます。

ベトナム、ホーチミンへ

11月5日 プノンペンからホーチミンへ

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いまにも降り出しそうなプノンペンの朝。宿を8時半頃に発ち、陸路で国境を越えてベトナムへ向かいます。

前日に宿で確保してもらい、受け取ったはずのバスチケットがチェックアウトの時に見当たらず、なんとか頼み込んで再発行してもらいました。

ホーチミンへ 643

バスターミナルでは朝から行商のひとびとが行き交っています。果物、パン、ジュースなど長距離バスに乗る乗客に次々と声をかけていきます。

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バナナ。青いのはけっこう固くておイモっぽいことを学習したので、今回はマンゴーにしてみました。

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ところが。これがまたしゃりしゃりって感じで固いのです。甘くないし、ほとんど野菜スティックを齧る感覚。袋についていた小袋に入っている赤唐辛子と塩をつけて食べるようです。うーん。美味しくないっていうわけではないのだけど、食べたかったものと違う・・・

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途中、バスごと乗れる渡し舟に乗って河を渡りました。トラックもバイクもひともごっちゃに適当に乗っています。

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車窓から。そんなに大きな船でもないのですが、すきまなくギュウギュウ詰めに乗っているのでかなりの車とひとを一度に運べるみたいです。

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だんだん晴れてきました。空が広いです。途中で食事休憩のために食堂へ。

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休憩所に到着。食堂でお昼ご飯。カウンターにいろんな料理が並んでいて、そこから好きなものを選んで、ご飯の上に乗っけてもらいます。今回は甘辛く煮た魚。上に乗っている千切りしょうがみたいなのは、マンゴーを細切りにしたもの。細切りにしてあるとおいしい。魚ともよく合います。

 

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午後、国境へ。タイからカンボジアに続いての陸路越え。二度目になるとなにをすれば良いのかがだいたいわかるので少し余裕が出てきます。まずは出国手続き。これは割りと簡単。

ホーチミンへ 671

みなさん、アトラクションの入場口みたいな気軽な感じで進んで行きます。内心はドキドキしているのを悟られないように笑顔で通過。

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そのあとそのまま歩いてベトナムの入国審査へ。警備員さんもほとんどおらず、外貨両替のカウンターだけがちょっと賑わっていて、あとは静か。

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ふたたびバスに乗り込んでベトナム南部の都市、ホーチミンまであと少し。サイゴンという響きのほうが好きだなあと思いながらバスに揺られます。ムンバイもボンベイのほうが好きだなあとか、ヘクトパスカルよりミリバールが好きだなあとか思いながら・・・懐古趣味?

信号待ちでおばさんがバイクのひとに声をかけています。宝くじ売り、だそう。一瞬の隙も見逃さず商売!たくましいな。見習いたいです。おばさんの被っている、傘のカタチをしたノンラーという藁帽子を見ると、ベトナムに来たな~と思いました。

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遠くにビル影が見えてきはじめ、街が近づいてきますが、外れにはスラム街のようなバラックがたくさん。

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バイクの数もどんどん増えてきて、市内に入ると、バイク専用のレーンがあります。50ccのスクーターに3人、4人は当たり前に乗ってかなりのスピードで走っています。おお、これがうわさに聞くベトナムの交通事情か!とのんきにわくわく。

このあとベトナムの都市部では道路横断できず、おろおろおたおた、死にそうな目に何度もあうことになるのですが。まだこの時の私はそのことを知りません。

今回も読んでくださってありがとうございました!次回は憧れのチョロン5区!

 

 

プノンペン トゥール・スレン

2012年11月4日 トゥール・スレン

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キリングフィールドから再びトゥクトゥクに乗って移動。ガソリンスタンドというものがあまりなく、道脇の屋台で、使い古しのペットボトルに小分けられたガソリンが売られています。どこでガス欠になっても困らないのは良いですが、火事になったら大変だろうな、と思いました。

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現在の正式名称は「トゥール・スレン虐殺博物館」。当時はS21という暗号名で呼ばれていた政治犯収容所です。もともとは高等学校だった場所。

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日が落ち始める頃到着し、1時間半ほど見学しました。見学なんて言葉をつかうのもはばかられるような生々しい場所ですが、入場料を払って敷地に入った旅行者に過ぎないのだから、やはり見学としか言いようがないのかもしれません。

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発見当時のままに残された拷問室や独房は国立博物館というにはあまりにもそっけなく淡々としています。

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収容されたひとびとの写真が展示してあります。カメラの方を向いているので、どこから見ても彼らの目がじっとこちらを見ています。

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ポル・ポトの革命ののち、教育は徹底して排除され、教育を受けたひとびとのほとんどが反革命分子であるとみなされ拷問され、殺されました。S21の秘密を守るため、看守も次々に口封じとして殺されました。本当に事実なのかと疑いたくなるようなことばかりです。

この収容所の存在が明らかになったのは1979年。指揮官のドッチの裁判がはじまったのは2009年。終身刑の判決が出たのは2012年2月のことです。

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2年9ヶ月の間に14000~20000人のひとが虐殺された場所です。ひとを狂気に駆り立てるものの正体はなんなんだろう。この場所にいる間、そればかりが頭を巡っていました。

ここは本当に公開するべき場所なんだろうか。

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建物のひとつひとつの部屋を歩き、暗い独房に入ってみたり、まだ血の跡さえそのままになっている壁に触れてみたり。重たいものを胃の底に感じながら外に出ると、夕刻の空に金色の雲が光っていました。幻のような空でした。

数ヶ月経って、いまこのブログを書きながら思い出すのは、オレンジがかった茶色とすすけたクリーム色の市松模様の床、そしてこの空。

 

次回、カンボジアを出て、ベトナム、ホーチミンへ向かいます。どうしても行ってみたかったチョロン5区のこと。

プノンペン キリングフィールド

2012年11月4日 キリングフィールド

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プノンペンで宿を確保した後、トゥクトゥクを頼んで、キリングフィールドとツールスレン刑務所へ行きました。

この旅に出るまで、70年代のカンボジアに関する私の知識は、深夜映画で観た「キリングフィールド」くらいのものでした。

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カンボジアへ行くなら、と図書館で数冊本を借りて読んだりもしましたが、そこで起きた虐殺、は一体なんだったのか、歴史の跡をこの目で見て、旅から帰ってきて数ヶ月経っても、いまだによくわかりません。

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ナチス、ヒットラーの虐殺も、日本の特攻隊や本土決戦でのオキナワの集団自決も、同じようにわかりません。追いつめられていく狂気も、自分で判断することを許されない洗脳も、なくならない。個人的な理由でも、国家の大義でも、人は人を殺すし、苦しんでも泣いても、また繰り返し。怒っても悔やんでも、また繰り返し。繰り返し。現実はいつも善悪の彼岸にあります。

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クメール・ルージュの虐殺のいきさつを、ざっとまとめると、こんな流れです。

カンボジアは第二次世界大戦後フランスの植民地からの独立し、シアヌーク国王による社会主義の王政国家になります。その後、アメリカ主導によるロン・ノル(シアヌーク政権の国防相)のクーデターでシアヌーク国王は追われ、カンボジアは共和国に。それに反発する原始共産主義のポル・ポト派が台頭し、内戦へ。ベトナム戦争でアメリカが敗北し撤退したことで、後ろ盾を失くしたロン・ノルは亡命。ポル・ポトの新政権誕生。ポル・ポトは、再度クーデターが起こらないように、と知識階級を中心とする200万もの人の虐殺。

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いったい、主体というのはどこにあるのだろう。どこまでが大義のためで、どこからが私欲や権力のためなのか。その線引きが私にはわかりません。そこに差があるように思えないし、あったとしても私には「ほんとうのこと」を知る術もない。

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キリングフールドに、虐殺が行われたその場所に自分の足で立っても、無常感のようなものが付きまとうばかりで、憤りや、哀しみが沸いてくることはありませんでした。

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のどかな日差しと、観光客たちの中で音声案内のテープを聴きながら一つ一つの場所をまわっても、いったいなにを感じれば良いのかわからなかった。のんびり寝そべる犬や輪になって遊んでいる子ども等を見れば平和そのものだけれど、あたりにはまだ地雷が埋まっていて、ここは戦後の復興途中の国で、けれどそれを良いとか悪いとか、言える言葉は持たないし、正解もない気がしています。

 

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キリングフィールドをでてそのままツーツスレン刑務所跡へ。虐殺された知識階級のひとびとの収容所だった場所です。次回へ続きます。